そして来年、僕らは40歳を迎える。
高校時代のダブルスのパートナーの命日から、もう20年。寒い冬空の下、救急車を待ったあの時間は、止まったままだ。僕らはもう、40歳を迎えようとしている。「こうしてみんなで会える機会をくれたんだと思う」20代になって部長が言った言葉を思い出し、それに身を任す。
毎年のゴールデンウィークは、テニス部の友人たちと集まることに、私は決めている。たくさんの友人はいらない。大切な時間だけを過ごしたい。少しは大人になったのだから、貴重な時間、生きる時間を選ぶことにした。しかし、墓参りは、生産的なプロジェクトでなく、楽しい趣味の時間でもない。お墓参りにどれだけの意味があるのか?、と聞かれても、僕は答えることができない。
答えることはできないから、お墓参りに行く。毎年。
まわりは相変わらず、政治と金の問題、そして教育問題だ。賞味期限切れのマインドセットで、日本を終わりにしていないだろうか?、と考える。
「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン『熱狂の日』音楽祭」でショパンを聴いた。「嬰ハ短調(ノクターン 第20番)」は、平原綾香もフォローしている遺作だった。
微かな記憶の束が、忘却の旋律になった・・・
命は小さい。
ピアノ1音分だ。
人は連なり、それは旋律になる。
死んだ友とのつきあいを20年つづけてきてわかったことは、「忘れていない」ということだ。
時間が解決するというけれど、悲哀は1音分として、残った。
来年もあたたかく静かな1日を選ぼう。
私が毎年墓参りをする20年目の理由。
忘却の旋律。
(Visited 51 times, 1 visits today)
コメント