正直さと向き合う

 正直さを尊敬する。いやな思いもするだろうし、冷や汗もかくだろうし、たいていは嘘つきをしながらでないと、社会を生きにくい。

 たいてい、と言い出した途端、疑問の仮説すら、消えてしまう。しかし、正直さについては、考えておきたい。

 ふと、とても正直なスタッフといっしょに働いていたことを思い出す。本当に正直すぎて、こちらが傷ついてしまうくらい、真っ正直だった。間違ったこと1つ許せない。正しいから評価を受ける。

 しかし、自分が間違ったときに混乱する。そして、間違いもいっぺんにいくつも発生したり、本当の原因解決までいくつもステップがあるときに、彼女は混乱する。

 しかし、駆け出しの責任者だった私は、そのまま正直さを受け止めようと必死だった。正直さにつきあった。

 そのうち彼女は疲弊した。

 もうちょっと寛容になったら?、という思いはあったし、そのタイプの言葉をかけたが、その正直さのもつ魂には、届かなかったのだと思う。

「司馬遼太郎さんの言葉に、”純度の高い正直”という言葉がある」

 そうか、正直にもレベルがある。

 単なる「吐きもの」なんて、相手にとって迷惑なだけだ。

 うそは人を動かさない。しかし、純度の低い正直も、かえって人には迷惑だ。

 何度も練り、鍛えて、質のよいものにしあげた正直こそが、人を動かす

 純度の低い正直。

 その瞬間、瞬間の正直。

 個人のレベルでは、純度の低い正直に私たちは囲まれる。事象に対して、反射的に感情が出る前に、私たちには選択の余地があるはずだ。それは、自分一人で考えることではなく、他人のことも考えた結論になる。それが社会。

 正直さ。

 正直さと向き合う。

 そして、真摯さが磨かれる。

これから)羽田経由で、上海へ

理解という名の愛がほしい??おとなの小論文教室。II

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