iPadを購入して3ヶ月。洋書が6冊、和書が2冊。そして、今週PDFで読める論文を40本入れてしまいました。情報の洪水で大丈夫?という心配はいりません。大きな海で寝っころがりながら、自分が「あ、いいかも」に出会うのを待っている感覚です。衣食住+書な生命体の私は、ストレスなく読める環境のおかげで、iPad は、ラストブック(持ち出すならこの一冊)になりつつあります。2010年も上半期が終わり、業務上は残り半期の予定を考え、パーソナルな部分では、12月までの3ヶ月に何をするのか?、考えるいい日和ですね。
農薬中毒、利益相反、薬剤師教育。今年の私もいろいろなテーマをいただきました。どのテーマも1)これまでに何が分かっていて、2)未知なことが何で、3)なぜそれに取り組むのか、常に考えています。1)のバックグラウンドは、論文をDate、publication typeで分けて、マップを書いています。論文のPDFのファイル名にdateを入れて、ただフォルダにいれていたのですが、PAPERSというソフトを試してみました。
・Pubmedもサーチエンジンに組み込まれているので、本文やアブストラクトをみながら、次々にページをめくれる。
・ボタン一つで、PDFファイルを自動的にもってきてくれる
・並べ替えができる
・iPhone iPad と同期して持ち出せる
・プリントアウトか、パソコンを開かないと読めなかった論文が、片手で読める
触っているのが楽しい体験、それがそのまま学びになり、共有されていく。朝日新聞に書かれていた福岡伸一さんのメッセージから、これがメディアのポジションか、と感じました。
私たちにとってメディアとは何かが見える。メディアとは、単にコンテンツやデータを載せたアーカイブではない。メディアとは、それに接すると流れが導かれ、反応を引き起こすものとしてある。そのとき初めて意味を特つ動的なものとしてある。そして、接するときのタンジブルさこそがその実体を示す。
残念なことに、私は接点としてのiPadをとてもタンジブルなものに感じた。なぜ残念かといえば、紙の書籍や紙の新聞に、私はずっと特別な手触りと愛着を感じてきたからである。
でもそれは私たち旧世代の感傷であろう。これから生まれてくる世代にとって、IPad(あるいはそれに類するもの)は、ハイテクでもなローテクでもない。アナログでもなくデジタルでもない。彼らにとってそれはタンジプルな第一言語としてそこにある。
ヒトが地球上に出現しておよそ700万年。紙がタンジプルだった数千年は、その中の一瞬として、まもなく確実に終わる。しかし、流れとして、その流れ方としてのメディアは私だちとともにあり続ける。
気づき)
・一人一人がメディアを作る
・落語は他人を必要とする
・研究することはアウトプット(共用言語)づくりで、生きるという歩み
これから)棚卸し、月末処理のクライマックス
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