悟れるか、悟れないかの仕分け

「死の医学」への序章 (新潮文庫)

「死の医学」への序章 (新潮文庫)

 

 死について、私は想像するばかりのその世界において、この1冊から、断崖を垣間見た。西川喜作医師(国立千葉病院神経科の医長)は、1981年に50歳という若さでがんと闘病の末、死ぬ。

 自分の死について考えるとき、静かに死にたい、死ねるだろうと信じている。しかし、死に直面したときに本当に自分はそうできるのか?、断崖に不安を感じた。

 死に直面したときに、自分は、「悟れる人」か「悟れない人」かという安易な仕分けで対応することの危うさ

→悟れる側にあろう、と思うことこそが甘いのだ。痛撃。

 西川医師に心を動かされたのは、「悟り」などという下面の殻に閉じこもることなく、心の揺れ動きのなかで、世間でいう「弱さ」や「わがまま」を素直に出していた点においてだった。

→危うい断面。断面積cross sectionが大きくていい。自分は自分が思うほど大きな断面積を持っていない。断面積が大きくあってほしいと、思われているかも知れない。あなたは、他人にとっても大切な人ならば、なおさら。スマートが万事いいわけではなく、悪魔くらいの美しいトゲがあった方がいい。

「患者が重篤な状態に陥ると、医者、看護婦は廊下鳶のように飛んで歩く。そうしなければいられないような雰囲気がありますね。そのようななかで、患者の、みみずの鳴くような声を聞こうとするスタッフは、ほとんどいない。はやく機械を持ってきて、ということになる。それが現代の医者や看護婦の職業的な反射運動になっているのです」

 聞く心。

 死とは歩みである。

 厚生労働省の緩和ケアプログラム100冊の旅、のこり96冊。

これから)ストレッチ。長らく忌引きだったので、予定の調整。職責者会議、医療安全委員会、システム委員会、新型インフルエンザ対策本部会議。

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