「あうん」で日本人が何でもできていたころは

川の流れ

 あいさつまわりをしながら、新しい年を迎えたことをだんだんと実感しています。年の瀬から新年にかけて、プライベートモードでは、実は、いつも以上に気を遣うこともあります。

 この気遣いは、ふだんの仕事のときとは違います。仕事の場合は、「やる・やらない」という行動できる言葉で、リクエストをして、実施後の評価をしています。この基準なら、「やった・やらなかった」が、そのまま結果に結びつきますので、因果関係が明確です。ルーブリックが明確なら、自分で努力ができるし、指導もしやすいのです。

 一方で、気遣いの世界は、察することが主体。はっきりと要求をしてこないけれども、要求されている、もしくは相手が気がついていないことをやってのける。ときには、反対のことを言われたりもします。あうんの呼吸が求められる曖昧な関係では、直感から相手に入っていって徐々に確認する方法が求められます。そして、言葉をなくしても成り立ったときに親密感を感じ合う。

 「あうん」で日本人が何でもできていたころは、コンテキストの前提条件が一致していたのでしょう。多様性を受け入れようとしている現代は、何のために・何をするのか、明確に言えないと成り立ちませんね。それでも、手間をかけて「あうん感覚」を磨くことには、価値がありそうな気がします。懐かしい香りがしますから。

もとねすメモ)「あうん」でできる感性は、大切にしたいです。

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