これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
- 作者: マイケル・サンデル,Michael J. Sandel,鬼澤忍
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/05/22
- メディア: 単行本
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サンデル教授の手法は、たとえば薬害教育に使えるでしょうか? 例年何回も薬害についての講義の依頼をいただくので、いわゆる「ソクラテス式講義」を持ち込んでみたら、どうなるのでしょうか? サンデル手法についてブログコメントを拾って対話してみます。
企業側(教授)からの一方的な主張(自説の押し付け)では、顧客はもはや反応してくれません。なぜなら、顧客自身が明確な答えを求めていない場合が多いからです。
これは今の時代のエートスだと思います。「答えを求めない」というのはそれも立場、と理解する必要がありそうです。
宿題に「リーデイング・アサインメント(読書リスト)」を提示して、各人はそれを読んで内容を把握しつつ自分の立場を決めてくる、それを元に授業では討論に参加する、そんな形式です。仮に授業規模が大き過ぎて講義の時間内では全員に発言機会を与えられない場合は、その授業とペアになる少人数セッションの受講を義務付け、助教なども加わって、全員がディスカッションや作業に参加、そこで「ちゃんと課題を読んだか?クラスメイトの議論活性化に貢献したか?」をアピールしないと単位は取れません。そんな仕組みです。
欧米ではスタンダードな手法です。日本は社会人になってから「やれる人」がやっているという感じでしょうか。
対話式教育は以前から学校教育で行われていたのだが、サンデル教授の方法は相手の立場を明確にしながら弁証論法で内容を深めている所に特徴がある。
しかし、この方法も前提としてあるのは知識と経験だ。日本の学校教育では知識に偏りがちだが、自分は義務教育、特に小学校では知識偏重教育でもいいと思う。知識なくして議論は深めることはできない。そして、中学校から少しずつ対話式教育を導入していってもいいのではないか。
つまり、薬害の知識がない人とサンデル手法をすることは無理。最初のプレゼンテーションで、サマリだけでも知っておいてもらうか?
複雑な現代社会における複雑な問題を解決する、あるいは解決できない問題を抱えつつ最善手を打ち続ける、その中で多様な価値観を持つ相手を理解しながらコンフリクトの落しどころを探る、そうしたビジネスや行政に求められる能力を鍛えるには、抽象論と現実把握、価値観の異なる相手との共存方法など、生きた議論の訓練をしなくてはやっていけないからです。
「訓練だよ」と入り口にお題をつけておかないと、最初からできない、になってしまう。
かつての日本(今でもそうですが)では、公教育はまるで保守的な反面教師のように、静的な知識の紹介と定型的な訓練の反復に徹していました。社会で本当に必要な動的・相互的な頭の使い方の訓練の部分については、若者たちは、例えば学生運動や文学サークル、演劇活動などで補ってきたのです。ですが、そうした機会は、価値観の多様化とともに衰退してしまいました。若者の知識や価値観は、そこに時代や世代の流行があり、誰もが仲間意識を持っていれば何らかのコミュニケーションを通じて活性化されるかもしれませんが、現代のような多様化の時代では自然発生的なものには期待できないようです。であるならば、公教育でそうした動的・相互的な頭の使い方や、そのためのコミュニケーション様式の訓練を行うことは急務でしょう。
指導メソッドの中で重要なのは、ディベートが人格の優位劣位にならないようなプレーンな言語形式の開発です。日本で長い間、価値判断を伴なう議論が文化として成熟してこなかったのは、同じ立場の人間が共同体意識を持ってしまって、敵味方の安易な二元論になる一方で、陣営内部の議論の多様化ができない、いわゆる党派性の弊害があったと思います。この問題は、旧世代の退場とともにかなり克服できる条件が整ったとも言えます。
ですが、改めて思うのは「世界観」を持ってしまった人間は、価値を共有できていない人間にもおなじ「世界観」を押し付けようとする、すると主張イコール相手の人格否定になってしまう、その辺の問題が日本語の場合ですと対話にどうしても上下関係のニュアンスが持ち込まれてしまうために、スッと抜けていけないという悩みがあります。結果的に、ディベートの勝敗イコール人格の優劣のような形になってしまうのです。例えば、キレイな負け方とか、相手を追い詰めない勝ち方といったコミュニケーション上の様式が、日本語のディベートには余りないのです。学生運動の世代なども「ナンセンス」といった罵声を浴びせて「自己否定」を強要するなどかなり粗っぽかったわけです。今でも議会のヤジとかにそうした野蛮さは残っていますし、今どきのネットでの炎上なども同じことだと思います。
そのあたりに、新しい「共存のコミュニケーション」を模索しつつ、まずはディベートによって価値判断を伴う、動的・相互的な頭の使い方の基礎訓練を行う場を公教育に導入してゆくこと、これは待ったなしであると言えるでしょう。
答え、すなわちこの商品はこんなことをしてくれますといったメリットを滔々と語るよりは、世界観を共有して、一緒に理想の状態を追求していく共同作業型のコミュニケーション方法をとる方が、多くのヒトを巻き込み、結果的に成果に結びついているようです。
共同作業型のコミュニケーション手法は、多様性の時代に必要な理由がここに書かれていると思います。
ハーバード大学のローレビューの編集長であったオバマ大統領「みな、何かが欠けていると思い始めている。仕事があり、財産を持ち、気晴らしをし、ただ忙しく過ごすだけでは物足りないと悟りつつある。目的意識を求め、人生に物語のような山場を求めている。もしわれわれが本当に人々の置かれた状況について話したいと思うなら、われわれの希望と価値観を、彼ら自身の希望と価値観につながるような形で伝えたいと思うなら、進歩主義者であるわれわれは、宗教的言説の分野を切り捨ててはいけない」
オバマ演説にもそのエッセンスがうかがえます。
気づき)
・お詫び。上記の引用元の転記を忘れました
・まだ手法として、まとめきれていません
・サンデル教授の著書『The Case against Perfection』の邦訳『完全な人間を目指さなくてもよい理由』です。いい題名ですね!
これから)薬害の講義があるので、さっそく「お題」を決めて、ディスカッションしてみようと思います。月曜日に職場でトライしたら、見事に意見が分かれました。考えることから参加しましょう。
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