なぜ「教えよう」とするのでしょう

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 「病院の医療理念をうまく伝えたいので協力してほしい」と看護部から相談をいただきました。歴史ある看護部ですから、地域で住みつづけられる医療を、必死に続けてきたストーリーは、十分にストックされています。

 しかし、そのことを、学生や新人に熱意を持って話せば、心に響き、価値観を共有され、いっしょに歩いてくれるのでしょうか。ふと、ズレを感じたので、メモ。

 教えることは、教える側にとっては、学習効果の高い手法ともいわれています。一方で、教わる側からは「一生懸命教えたけれど、アイツはいつまでもできない」という評価が、毎日のように聞こえてきます。

 これほどまでに、成功率の低い行為なのに、
 なぜ一生懸命に「教えよう」とするのでしょう?

 教えることは、技術でしょうか?。技術だとしたら、理論を学びながら、実践をする努力が必要です。それとも、教えたことが、そのまま教わることになるのは、受け手がこちらの期待を察せられる人だったり、聞き分けのよい人だったり、教わり上手な人と巡り会えるか、という運の問題でしょうか?

気づき)北風と太陽のように、アプローチの仕方そのものを見直す必要がありそうです。

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