インターネットがない時代には、プライベートな行動を公開することはありませんでした。今では、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を使えば、簡単に公開ができます。もしも、知り合いが経験したことのないようなイベントばかりを投稿をしていたら、よほどアクティブな方でない限り、投稿する記事はすぐになくなってしまうでしょう。
でも、自分とつながりがある人たちのことを思い浮かべたら、私の何気ない日々も、誰かにとっては価値あるものがあるかも知れません。たとえば、facebookのつながりは、プライベートなサークルの幾重もの重なりです。小学校からの友人も、学会で知りあった先生方にも、ボストンに住んでいる叔母でさえも、誰もが不快にならずに「ほうっ…」と思ってもらえる写真付きのメッセージを作ることはむずかしいでしょう。
プライベートのままにしておくのか、パブリシティのサークルにシェアするのか。それを決める権限は、プライベートの側が決められる時代に、そのようなメッセージを作ることには、ちょっと価値がありそうです。
プライベートな出来事から、余分をそぎ落として、そこにある骨のようなものを磨いて、パブリックにシェアする。ちょっとプライベートの味がついているくらいが、テイストとしてちょうどよいようです。こうして、自分の生活から「よい素材」を手に入れる勘を養う。ここらか、プライベートとパブリックは、相容れないものではなくなっていくのでしょう。
もとねすメモ)月一回くらいのペースでfacebookに投稿しながら、そんな実験ができる時代なんだな、と思っています。publicity(パブリシティ)=知れ渡ること。広告、宣伝。
集中って基本的には『対象』がなかったらできひんねん
(伊藤丈恭『緊張をとる』)
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