難しい本を読む

富岡製糸場

 20年前くらいでしょうか。「もう少しちゃんと身になる難しい本を読めよ」と、ある日、先輩に言われました。

 怠けて読書をしているつもりはありませんでしたが、まるで自分が「ダメな読書」をしているみたいな言われようでした。
 先輩の発言に対して反射的に怒りの気持ちが湧くでもなく、この指摘は、長引く違和感としてわたしの心に留まっていたようです。

 数年かかったでしょうか。「教育」「公衆衛生」の分野で、気になる事象に関連する論文を読んで、古めでよく引用されているテキストを読むようになりました。

 さらに、その分野の時代やものの考え方を知ろうとすると、いまにも溺れそうになりながら、読書をしている始末です。

 何度目かの読み直しをしている「状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加」も、日本語なのに、はじめは全くわかりませんでした。ところが、理解しにくいテキストでも、自分の感情をメモしながら、少しづつ、何度も読み返してみると、だんだんと味わいがでてきます。

 難しい本を読む読書って、こういう感じなのか…。
 たしかにこのレベルの本にくらべたら、書店に平積みされているタイトルは、すーっと、おやつのように読めてしまいます。さて、先輩のいう「難しい本を読む読書」がこれのことをいうのか、次にお会いできる日が楽しみです。

もとねすメモ)手強い一冊なので、読み終わるのか…

個々の学習者はひとまとまりの抽象的な知識の断片を獲得し、それを後に別の文脈に移して当てはめる、といったことはしない。むしろ、学習者は正統的周辺参加(Legitimate Peripheral Participation:LPP)という、ゆるやかな条件のもとで実際に仕事の過程に従事することによって業務を遂行する技能を獲得していくのである。
(『状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加』Jean Lave, Etienne Wenger)

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