ちょっと背伸びの「書き言葉」で自分を語ってみる

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額縁を見落とした人は世界をまるごと見誤る可能性がある、ということです。

(「街場の文体論」内田樹)

 このブログを最初のころから読んでいただいた方から、「以前よりも文体が明るくなったねえ!」と、お言葉をいただきました。ありがとうございます。

 「私自身の学びメモ」としてはじめたブログですが、「他者の視線」を感じています。ほぼ毎日書き続けるこの習慣が、私にもたらしているものは何か?。もしかしたら「書き言葉」を使うことで自分を導いているのではないか・・・、と。

 

1.言葉を遣う習慣

 言葉遣いを変えると、すぐに人から「変わったね」といわれます。言葉がその人の形(なり)を表すことには、間違いありませんね。言葉遣いとは「話し言葉」はもちろん、「書き言葉」についても同じでしょう。

2.選択した「書き言葉」で、語ること

 「書き言葉」を私たちがふだん遣う場面は、メールや報告書、メモ書きくらいでしょうか。そのほとんどが、求められる要件が決まっている仕事文ですね。一方で、ブログを書くということは、他者の視線を適度に感じながら、自己を語る場になるのかも知れません。

3.「在りたい自分」と「つながりたい人たち」

 いつも笑顔の人には、いいことが集まってきます。同じように、ブログを書く文体や選んだ言葉で書くということは、「在りたい自分」を作ることにつながっていくのでしょう。そして「つながりたい人たち」と引き合わせてくれる。

 自分の凡庸からちょっと飛び出すには、

 「書き言葉」で語るというのも、よいかも。

気づき)

 ・過去ログを読み返すと、これ自分?という記事あり

 ・自分から離れる、それが「書く」ということの意義なのかも

 ・最初は下手くそでも、書きながら。

街場の文体論

街場の文体論

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